子供の頃住んでいた札幌市中央区は啓明地区。
当時、この一帯には銀行員や公務員、有名どころの会社の社宅などが多く、札幌市内でも生活水準の高い地区として知られていた。
そもそもこの一帯は、大正の終わりから昭和初期にかけ、札幌市民に住宅地を分譲しようと開発された土地なのである。
そこの頃、行政区としては藻岩村円山村。
「村」といっても、あなどることなかれ。
円山村は、当時の札幌市と十分対抗できうるだけの存在力があった。
郊外へ郊外へと延びる札幌の新たな分譲住宅地として注目され、一山当てようという経済人によって、藻岩山の麓、界川には、リゾートの先駆けである「札幌温泉」が建てられ、電車も敷かれた。
今でいう「温泉付き分譲地」である。
(ただ、札幌温泉に限っていえば、温泉が出ることはなく、はるばる定山渓温泉よりパイプラインを設置、お湯を引いたというのだからすごいとしかいいようがない)
近くの伏見地区や宮の森地区なども、同じような性格で開発された住宅地といっていいだろう。
はてさて、そんなところに生まれて育った牛鍋蝸牛の実家が、それではお金持ちであったかと言いますと、とんでもはっぷんなのである。
ま、死語だけどね。
「とんでもはっぷん」。
ここに住んだのは、うちの父親が勤めていた小さな小さな会社の持ち家があったから。
かっこよく言えば「社宅」だが、普通の一軒家の、一階に別の家庭が入っていて、うちは二階の一間に暮らしていたのである。
この一軒の建物に複数家族が居住するという形式は、今から50年前を鑑みるに、それほど珍しいことではなかったのではないかと思う。
住宅事情が悪かった当時には結構あったことなのだ。
経済白書で「もはや戦後ではない」と謳われた昭和31年生まれのワシではあるが、まぁ、当時はそんなモンだったのである。
さて、その一間。
おそらくは六畳か、せいぜい八畳ほどである。
親子三人と言っても、さすがに狭かったので、父親は押入の上段に布団を敷いて寝ていた。
現在53歳のワシは今の時代でも大男の部類だが、父親は背もそれほど高くなく、痩せていたので、これはできた芸当かもしれない。
親父の稼ぎが少ないので、母親は洋裁の仕事をして、なんとか生計を立ていた。
が、休みの日など、親父が押入で寝ていると、近所の奥さんなんかが洋裁の仕事を頼みにやってくる。
当然、母が応対するのはその一間である。
早く済めばいいが、仮縫いなんぞには時間もかかったのだろう。
親父は押入から出たくても出られなくなる。
息を潜めているだけならまだましなのだが、そのうち生理現象も起きてくるわけで、しかし、押入からステテコ姿の男が飛び出すわけにもいかない。
親父にとっては地獄の時間であっただろうし、実際、客が帰ったのを確認し、股間を押さえて押入から飛び出してくる彼の姿を何度も目撃した。
ま、かわいく言えばつましい生活。
実際には赤貧洗うが如しというか、そんな我が家の周辺は、先にお話したように結構な稼ぎがあるハイソな方々が多く住まわれていたわけで。
近くにはご主人がアメリカ人の家庭もあったりして、ワシはそこの息子のお下がりをもらって着ていたそうである。
ワシの垢抜けたファッションセンスはこの時、磨かれたのかもしれない。
そこの家から絵本なんぞも貰って読んでいたようだ。
その中に、「にんじん」という絵本があった。
ググってみると、今販売されている絵本「にんじん」の絵柄は、結構明るいようだが、ワシが貰った「にんじん」の挿絵は、殷々鬱々、実にくら~い絵本であった。
主人公のにんじんは常にうつむき加減。
顔は赤い髪に覆い隠され、はっきりとはわからない。
おかげかどうかはわからないが、長年ワシは、「赤毛のアン」と「にんじん」を混同しておった。
ワシが東京に行っていた9年数ヶ月の間に、バブルに踊ったかどうかは知らないけれど、芦別市が開設した「カナディアンワールド」が「赤毛のアン」の世界を舞台としたテーマパークと聞いて、「なんて話をテーマパークにしたんだろう…」とずっと思っていたことを、恥ずかしながら、今、カミングアウト。
話は戻って、啓明地区。
きれいなお嬢さんがいる、丸メガネをかけた絵描きの先生なんかもいて、貧乏家庭の割には、ワシはそこで絵を習っていたりもした。
ワシの優れた美的感覚はこの時、はぐくまれたのかもしれない。
近所には子供が多かった。
いじめられたことはなかったが、一番年下だったので、年長の子と一緒に遊ぶのはなかなか大変だった。
他の子にできることがワシにはできないし、どうしてももたつく。
何をするにも遅れそうになる。
この時の、「置いてきぼりを食うのではないか」という恐怖心は、その後のトラウマになった。
後に学校などで、団体で行動する時は、常に内心、意味もなく焦っていた。
今では社交的とは言われるが、基本的に人とつるむより個人行動を好みのは、この時の経験の裏返しかもしれない。
昭和30年代の初め、裕福な家が多い地区。
そこで起きた大きな出来事とが何かというと…。
若い方には、映画「三丁目の夕日」を思い起こしていただきたい。
そう、テレビの出現である。
何しろ、うち以外のうちの周りはそこそこ金持っているので、テレビはあっと言う間に浸透した。
当時のテレビというのは、えらく高価なものであったが、当然、リッチな啓明地区でのその普及速度は、とんでもなく速かったのである。
2~3歳の牛鍋蝸牛である。
テレビ、観たいがな。
当時は終日放送をしていたわけではないが、子供が大勢いたこの界隈で一番ちっちゃかったワシでさえ、何曜日の何時から何のテレビ番組があるかちゃんと覚えていて、近所の年上の子供がいる家に上がり込んで、夕飯時になっても帰ってこない。
そんなことがしばらく続いて、さすがにうちの両親も困ってしまい、分不相応もいいとこながら、キヨスクの…、いや清水の舞台から飛び降りるつもりで、テレビを買うことにしたのである。
が、牛鍋家の収入で、だまっていていは、絶対にテレビは買えない。
そこで、ワシの母親は考えたのある。
母の古くからの友人に、北海道庁の職員である女性がいた。
カラスのように色が黒く、カラスのようにしゃべり、カラスのようにくちばしが尖ったおばさんであった。
※ここら辺は、牛鍋の、しかも子供の頃の記憶なのでどこまで正しいのかは定かではない。状況は間違っていないと思うが、実際の組織構造と違っていても、ワシゃしらん。
北海道庁の赤レンガの地下、天井の低い通路を降りていくと、そこには、「購買」というお店があった。
調べてみると、今はコンビニなどが入っているらしいが、当時も道庁職員の福利厚生という目的で、各種の商品が比較的安価に売られていたのではないだろうか。
ある日、母親に連れられていった、決して明るいとはいえない北海道庁の地下。
特徴的なアーチ型の装飾が施されたレンガでできた地下通路。
布が敷かれた台があり、その上に四本足のテレビが一台、鎮座ましましていた。
こちとら、小さなガキである。
下から見上げた光景は未だにはっきりくっきり網膜に焼き付いている。
そして、母親はなぜか小さな声でこう言った。
「このテレビ、買うんだよ」。
なぜ母が、小さな声でワシに耳打ちするようにそう言ったのか、長らくわからなかったが、からくりはこうである。
つまり、あの時代、収入の少ない我が家には、電気店はテレビを「月賦」でさえ売ってくれなかった。
そこで、れっきとした公務員の道庁職員であるあのカラスのおばさんが、道庁購買より買ったことにして、テレビはうちによこし、うちはカラスのおばさんに毎月少しずつ、金を払うというこういう絵図であった。
我が家は本当に長い期間をかけ、カラスのおばさんに金を返したそうである。