トランスメディア提供アイコン01椎名次郎画伯のSKETCH-HUNTING2010開催のおしらせ

早くもこの時期になりました。
こぞって行きましょう。

会場 中央区南3西7 古本カフェBCS(しゃみ靴店左入口)
開期 10月31日まで(月曜定休)13時~19時


# by atterra | 2010-10-07 21:01

トランスメディア提供アイコン01見て~感じてー

北海道唯一の国宝で、あの函館観光PR動画でもおなじみの、中空土偶が札幌にやって来る!
ただし、複製だが、ま、ただだし。

ほか、全道各地からの縄文文化遺産が大集合。
札幌からの出展はないものの、屯田のすぐ脇、石狩市紅葉山49号遺跡からの出土品もあります。

# by atterra | 2010-02-07 14:04

トランスメディア提供アイコン01ステテコ怪人の逆襲?

前回、ワシの出自の秘密をばらした。
押入の上段から飛び出す、ステテコ姿で急所を手で押さえた怪人。
それこそが、ワシの父親であることを…。

この怪人について今日もちょっと話そうと思う。
怪人は樺太…、つまりは今のロシア領サハリンの生まれであった。
当時、サハリンの南半分は日本領であったから、別にワシにロシアンの血が流れているということではない。

確かに、体はでかいし、声もでかい。
よって態度もでかく見えるかもしれない。
おしりに毛が生えていたりする。
きっと、平均的な日本人より、毛深い方であろう。
やっぱり、ちょっとロシアンか。

足の中指が親指よりも長い。
これはギリシャ足と呼ばれるようだ。
日本人では少数派。
ほとんどは、親指の方が長いらしい。
これをエジプト足という。

酒を毎日飲んではいるけれど、健康診断でも、γGTPはいたって正常である。
つまり、アルコールに関しては肝臓がやたら強いようだ。
しかし、これは明らかに母方の血統である。
母方のおじたちは、のんべばかり。
父方はほとんど飲まないのではないだろうか。

ステテコの怪人の父親(ワシのじいさん)は、もともと富山で百姓をしており、子供を数人作って、それらがええ加減大きくなってから、なぜか樺太に渡り漁師となったのである。
なんで、富山から樺太にわたったのか、親戚に聞いてもよくわからないのだが、天の感ずるところがあったのかもしれない。
しかし話によると、漁師であるじいさんも、ステテコの怪人も兄弟も誰一人、泳げなかったそうである。
じいさんは元々、富山の百姓だからそのときは特別泳ぐ必要もなかったのだろうが、万が一、海に落ちたらどうするつもりだったのか。
怪人を含め、その兄弟が泳げない理由として、ワシは怪人に尋ねたことがあるが、彼もまたその明確な理由を知らなかった。
海で泳ぐなんて、考えたこともなかったと言っていたような気がするが、それはやはり海の冷たさによるモノなのか。

じいさんは樺太でまた数人子供をもうけた。
たしか、富山、樺太併せて12人兄弟と聞いたことがある。
ちなみに、ワシが生まれる前に、父方のじいさんばあさんはすでに鬼籍に入っていたので、ばあさんは写真で、じいさんに至っては絵でしか顔を見たことがない。

さて話を、二十歳になったステテコの怪人に戻す。
ステテコの怪人(まだこの頃は押し入れで寝てはなかったと思うが…)の生まれは大正15年。
時代は軍国日本、富国強兵である。
欲しがりません、勝つまではだ。
すすめ一億、火の玉だ、だ。
いや、その頃すでに、そんな威勢のいいスローガンも虚しいだけになっていたかもしれない。
ステテコの怪人が二十歳ということは、昭和20年ということであるからして。

彼は本籍が富山であったので、樺太から、その時初めて富山に行き、入営した。
ラッキーな年の生まれだった。
幸いにして入営して数ヶ月で、終戦を迎えることができたのである。
ま、体も細かったので、丙種合格とかで、とにかく国内にいられたことは幸運であった。
ステテコの怪人にワシの体格があったら、絶対、甲種合格で、とっとと外地へ送られ、きっと悲惨な死に方をしただろうな。

戦争が終わって、軍隊も解体、兵舎から解放されるとき、渡されたのが、軍隊毛布一枚であったそうだ。
これは、その後20年以上我が家で使われた。
ネズミ色のごわついた毛布で、さわるとちくちくした、やたら重い代物であった。

さて、軍隊を出て、若きステテコの怪人は、初めて富山の実家に出向いたのである。
そこには年の離れた、20年経ってから、初めて会う兄がいた。
そんな兄弟の対面とは、一体どんなものだったのだろうか。
どんな感動的な言葉を発するのか。
子供の頃、ワシは興味津々でステテコの怪人に尋ねたのであるが、父親ほど年の離れた兄の言葉は、ぼそっと一言「元気か?」であったという。

南樺太はソ連軍により、あっという間に占領された。
樺太にいた怪人の親兄弟は、着の身着のまま、引き上げ船に乗り込み、命辛々、北海道に渡ったのである。
ソ連軍は、住民の財産をすべてボッシュート。
もちろん、スーパーひとし君人形であろうと、有無をも言わせずボッシュートである。
いわば、めちゃめちゃ強行でおっかない、草野仁みたいなもんか。
板東英二なんか、一番最初に銃殺だろう。

地理がわかるということで、地図はもちろん写真も持ち出せなかったらしい。
父の兄弟がなんとか、こっそりと持ち出したのは、皆で撮った一枚の写真だけ。
父の少年の頃の姿は、この写真にしか残っていない。

子殿の頃、ステテコの怪人は、天才で秀才であったらしく、実際その名は遠方まで鳴り響いていたそうだ。
生前、元気だった頃、ステテコの怪人自身もそのような自慢話をよくしていたし、樺太時代を知っている親戚や知人からも確かにそのように聞いていた。
ただ、残念なことに、彼はこれにこだわりを持ちすぎていたように感じる。
言うまでもないことだが、勉強ができたことと、社会的に成功することとは大きな違いがある。

ワシは子供の頃から本が好きで、彼に本をねだるのだが、「本なんて読む必要はない。教科書を読んでいれば十分だ」と言って、一冊も買ってくれなかった。
今の世の中、子供が本を読みたい、買いたいといって、買ってくれない親なんているものだろうか。
ま、金がなかったのかもしれないけれど、どっちかというと、本気で「教科書だけ読んでいればいい」と思っていたフシがあるのだ。自分がそうやってきた、勉強もできたという成功体験からくる発言ではないかとワシは睨んでいるが。

てなことで、本も買ってくれないのだから、おもちゃなんかもそうそう買って貰った記憶がない。
前にも書いたが、ワシの家の周りは、いいとこの会社や銀行に勤めている子が多かった。
差ー付くわね。
ま、幸いなことにお下がりたくさんきたけど。

てなことで、ワシが今、そこそこの(ほんとそこそこ)の収入を得ることができるようになってから、やたらモノを欲しがる、そして実際に買ってしまうという癖は、この時の満たされぬ思いが未だ尾を引いているのではと自己分析している。
これは年老いた母に今言っても、「そうかもしれない」と言うくらいだ。

と言うわけで、今回ステテコの怪人の話をしたのは、昨年11月に、新しい一眼デジカメ「Pentax K-7」を購入してしまったことを、なぜか、あなたに言い訳するため。
なんで、こんなことをあなたに言い訳しなけりゃいかんのか、自分でもようわからんのだが、何か新しいモノを買うのに、どうも後ろめたさを感じるせい。
どうやら、ステテコの怪人の黒い影(ステテコだから白か?)は未だワシの心の片隅に棲み着いているのかも知れない。
ワシの部屋には押し入れはないから、怪人が飛び出してくることはないはずなのだが。

※ 出るとしたらここだが、縦にならないと寝られない

# by atterra | 2010-01-15 21:53

トランスメディア提供アイコン01なぜか今日は我が家の初代テレビのお話

子供の頃住んでいた札幌市中央区は啓明地区。
当時、この一帯には銀行員や公務員、有名どころの会社の社宅などが多く、札幌市内でも生活水準の高い地区として知られていた。

そもそもこの一帯は、大正の終わりから昭和初期にかけ、札幌市民に住宅地を分譲しようと開発された土地なのである。
そこの頃、行政区としては藻岩村円山村。
「村」といっても、あなどることなかれ。
円山村は、当時の札幌市と十分対抗できうるだけの存在力があった。

郊外へ郊外へと延びる札幌の新たな分譲住宅地として注目され、一山当てようという経済人によって、藻岩山の麓、界川には、リゾートの先駆けである「札幌温泉」が建てられ、電車も敷かれた。
今でいう「温泉付き分譲地」である。
(ただ、札幌温泉に限っていえば、温泉が出ることはなく、はるばる定山渓温泉よりパイプラインを設置、お湯を引いたというのだからすごいとしかいいようがない)
近くの伏見地区や宮の森地区なども、同じような性格で開発された住宅地といっていいだろう。

はてさて、そんなところに生まれて育った牛鍋蝸牛の実家が、それではお金持ちであったかと言いますと、とんでもはっぷんなのである。
ま、死語だけどね。
「とんでもはっぷん」。

ここに住んだのは、うちの父親が勤めていた小さな小さな会社の持ち家があったから。
かっこよく言えば「社宅」だが、普通の一軒家の、一階に別の家庭が入っていて、うちは二階の一間に暮らしていたのである。
この一軒の建物に複数家族が居住するという形式は、今から50年前を鑑みるに、それほど珍しいことではなかったのではないかと思う。
住宅事情が悪かった当時には結構あったことなのだ。
経済白書で「もはや戦後ではない」と謳われた昭和31年生まれのワシではあるが、まぁ、当時はそんなモンだったのである。

さて、その一間。
おそらくは六畳か、せいぜい八畳ほどである。
親子三人と言っても、さすがに狭かったので、父親は押入の上段に布団を敷いて寝ていた。
現在53歳のワシは今の時代でも大男の部類だが、父親は背もそれほど高くなく、痩せていたので、これはできた芸当かもしれない。

親父の稼ぎが少ないので、母親は洋裁の仕事をして、なんとか生計を立ていた。
が、休みの日など、親父が押入で寝ていると、近所の奥さんなんかが洋裁の仕事を頼みにやってくる。
当然、母が応対するのはその一間である。
早く済めばいいが、仮縫いなんぞには時間もかかったのだろう。
親父は押入から出たくても出られなくなる。

息を潜めているだけならまだましなのだが、そのうち生理現象も起きてくるわけで、しかし、押入からステテコ姿の男が飛び出すわけにもいかない。
親父にとっては地獄の時間であっただろうし、実際、客が帰ったのを確認し、股間を押さえて押入から飛び出してくる彼の姿を何度も目撃した。
ま、かわいく言えばつましい生活。
実際には赤貧洗うが如しというか、そんな我が家の周辺は、先にお話したように結構な稼ぎがあるハイソな方々が多く住まわれていたわけで。

近くにはご主人がアメリカ人の家庭もあったりして、ワシはそこの息子のお下がりをもらって着ていたそうである。
ワシの垢抜けたファッションセンスはこの時、磨かれたのかもしれない。
そこの家から絵本なんぞも貰って読んでいたようだ。
その中に、「にんじん」という絵本があった。
ググってみると、今販売されている絵本「にんじん」の絵柄は、結構明るいようだが、ワシが貰った「にんじん」の挿絵は、殷々鬱々、実にくら~い絵本であった。
主人公のにんじんは常にうつむき加減。
顔は赤い髪に覆い隠され、はっきりとはわからない。

おかげかどうかはわからないが、長年ワシは、「赤毛のアン」と「にんじん」を混同しておった。
ワシが東京に行っていた9年数ヶ月の間に、バブルに踊ったかどうかは知らないけれど、芦別市が開設した「カナディアンワールド」が「赤毛のアン」の世界を舞台としたテーマパークと聞いて、「なんて話をテーマパークにしたんだろう…」とずっと思っていたことを、恥ずかしながら、今、カミングアウト。

話は戻って、啓明地区。
きれいなお嬢さんがいる、丸メガネをかけた絵描きの先生なんかもいて、貧乏家庭の割には、ワシはそこで絵を習っていたりもした。
ワシの優れた美的感覚はこの時、はぐくまれたのかもしれない。

近所には子供が多かった。
いじめられたことはなかったが、一番年下だったので、年長の子と一緒に遊ぶのはなかなか大変だった。
他の子にできることがワシにはできないし、どうしてももたつく。
何をするにも遅れそうになる。

この時の、「置いてきぼりを食うのではないか」という恐怖心は、その後のトラウマになった。
後に学校などで、団体で行動する時は、常に内心、意味もなく焦っていた。
今では社交的とは言われるが、基本的に人とつるむより個人行動を好みのは、この時の経験の裏返しかもしれない。

昭和30年代の初め、裕福な家が多い地区。
そこで起きた大きな出来事とが何かというと…。
若い方には、映画「三丁目の夕日」を思い起こしていただきたい。
そう、テレビの出現である。

何しろ、うち以外のうちの周りはそこそこ金持っているので、テレビはあっと言う間に浸透した。
当時のテレビというのは、えらく高価なものであったが、当然、リッチな啓明地区でのその普及速度は、とんでもなく速かったのである。

2~3歳の牛鍋蝸牛である。
テレビ、観たいがな。
当時は終日放送をしていたわけではないが、子供が大勢いたこの界隈で一番ちっちゃかったワシでさえ、何曜日の何時から何のテレビ番組があるかちゃんと覚えていて、近所の年上の子供がいる家に上がり込んで、夕飯時になっても帰ってこない。
そんなことがしばらく続いて、さすがにうちの両親も困ってしまい、分不相応もいいとこながら、キヨスクの…、いや清水の舞台から飛び降りるつもりで、テレビを買うことにしたのである。

が、牛鍋家の収入で、だまっていていは、絶対にテレビは買えない。
そこで、ワシの母親は考えたのある。
母の古くからの友人に、北海道庁の職員である女性がいた。
カラスのように色が黒く、カラスのようにしゃべり、カラスのようにくちばしが尖ったおばさんであった。

※ここら辺は、牛鍋の、しかも子供の頃の記憶なのでどこまで正しいのかは定かではない。状況は間違っていないと思うが、実際の組織構造と違っていても、ワシゃしらん。
北海道庁の赤レンガの地下、天井の低い通路を降りていくと、そこには、「購買」というお店があった。
調べてみると、今はコンビニなどが入っているらしいが、当時も道庁職員の福利厚生という目的で、各種の商品が比較的安価に売られていたのではないだろうか。

ある日、母親に連れられていった、決して明るいとはいえない北海道庁の地下。
特徴的なアーチ型の装飾が施されたレンガでできた地下通路。
布が敷かれた台があり、その上に四本足のテレビが一台、鎮座ましましていた。

こちとら、小さなガキである。
下から見上げた光景は未だにはっきりくっきり網膜に焼き付いている。
そして、母親はなぜか小さな声でこう言った。
「このテレビ、買うんだよ」。

なぜ母が、小さな声でワシに耳打ちするようにそう言ったのか、長らくわからなかったが、からくりはこうである。
つまり、あの時代、収入の少ない我が家には、電気店はテレビを「月賦」でさえ売ってくれなかった。
そこで、れっきとした公務員の道庁職員であるあのカラスのおばさんが、道庁購買より買ったことにして、テレビはうちによこし、うちはカラスのおばさんに毎月少しずつ、金を払うというこういう絵図であった。
我が家は本当に長い期間をかけ、カラスのおばさんに金を返したそうである。

# by atterra | 2010-01-11 21:47

トランスメディア提供アイコン01死んでから香典もらっても遅いので…

ヤクザな商売というのは年末年始、過激に忙しい。
今日はやっとこ一日だけ休み。
堅気の衆が、仕事納めだった日辺りたりから、休みはこれが二日目。
今現在、精神的にも体的にも、ガタガタ、ボロボロといった状態である。
天気もいいので、ちょっと出かけたい気分もあるが、今日は大人しく体を休めておいた方がいいだろうと思っている。

その間、個人的に、遅い忘年会のお誘いなんぞもあったが、当然出られるわけもなくお断りした。
今年、また誘っていただけるなら、12月の早い段階にしたいただけるなら義理を欠くこともないのだが。

実は、その地獄の期間が始まる前日、12月の27日のことだが、自宅で雪かきをしていて、ぎっくり腰を発症。
雪は重かったが、ちょちょいとした雪かきだったのに。
長時間寝て、起きて、飯食って(途中歯も磨いたし、顔も洗って、トイレも行ったけど)、いきなり雪かきを行ったのがよくなかったようである。
あ、と思ってすぐ止めたのだが、遅かりし由良の助。
幸いなことに症状は比較的軽く、痛みはそれほど無かったものの、中腰では下半身に力が入らない状態に陥ってしまった。

思い起こせばそれより一週間ほど前、仕事中に突然、右肩胛骨の辺りに違和感を感じ湿布をしていたことがあった。
おそらくは、あれが前兆であったに違いない。
明日から死ぬほど忙しくなる仕事を前に、こりゃ困ったと思ったのだが、日曜日とあってかかりつけの整骨院も休みであろうし、しょうがなく、この日も湿布をして横になっていた。

本当なら、遅ればせながら年賀状を仕上げてしまおうと思っていたのだけど、いすに座るという行為は腰に負担をかける。
ましてや、PCでマウスやキーボードを操作するってのは…。
ということで、年賀状を年内に発送するという算段はもろくも崩れ去った。

当初の予定としては、その前の連休を使って、25日という元旦配達の期日内に出すつもりだった。
しかし、新規のはがき作成ソフトのダウンロードがうまくいかず(しかも、2種類!)、メーカーに苦情のメールを送ったのだがその返事もまだこないという状況での出来事だったのだ。
ま、何から何までツイていなかったということである。

ぎっくり腰を抱えたまま、翌日から出勤。
無理はできないのだが、無理をしなければこの数日間は乗り切れないので、無理を承知で仕事をこなした。
合間をみて、2日間だけ整骨院に通った。
3日目の30日は、午前中までの診療ということだったので行ってみたが、駐車場に駐まっている車の数と、玄関から垣間見える診療を待つ人々の数をみて、こりゃあかんと引き返した。

医療用のコルセットというものを持ち合わせていないので、ウエイトトレーニングをやっていた頃使っていたパワーベルトを奥から引っ張り出し、これで腰を固定した。
焼き印された「American Dream」の文字が、虚しさを一層募らせる。

年明け、未だ忙しさの余韻が残り、疲労が過労と変わりつつあった数日前から、今度は不整脈が出た。
去年の冬の終わり、仕事から帰ってから寝るまでに胸の違和感を感じ、翌日も改善せず、かかりつけの医者へ行ってみて発見されたのである。
その日はその足で紹介された循環器専門病院へ出向き、簡単な検査と治療をしてもらった。
翌日から翌々日にかけ、詳しい検査を行い、「正式」な不整脈認定を受けた。
一応、特別心配するものではないとの診断ではあったが、一ヶ月経たない間にまた出たもんだから、心臓に負荷をかけての検査も行った。

それ以来、不整脈くんは疲れがひどくなると、ちょいちょい顔を出すようになったのである。
ワシの場合の不整脈くんは、彼自身よりも、血液が心臓内でスムーズに流れないことにより血液の塊ができ、そいつが肺とか脳とかに飛ぶことが恐ろしいらしい。
つまりは血栓。
ここ数日、「サンリズム」という薬を服用している。

てなことで、新年早々、体が悪い、調子がイマイチという不景気な話をしてしまった。
それもこれも、なんとかあなたから、幾ばくかのお見舞いでもいただけないものかしら?という気持ちから、書き連ねた次第である。
どう?
その気、起きない?

# by atterra | 2010-01-08 11:52

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